雨と電話ボックス

上坂 涼

 

 雨の日は電話ボックスに近づいてはいけない。

 それは私が幼い頃から聞かされ続けた戒めだった。

 家族、先生、友達。事あるごとに“今日は雨だから、電話ボックスに近づいてはいけないよ“と注意されたり、注意したりした。

 習慣とは恐ろしいもので、この異常なやり取りに違和感を持たず生きてきた。単なる別れの挨拶程度に思っていた。さようなら。気をつけて帰ってね。この常套句と同じようなものだと思っていた。

 しかし大学を卒業し、故郷を離れて東京の職場に就いてみれば、異常なのはこちらだったのだと思い知らされた。

 あれは東京に来てから初めて雨が降った日のこと。

 皆、平気な顔で雨の日に電話ボックスの前を素通りしていく姿を見て、私は会社の同期に「雨の日に電話ボックスに近づいても大丈夫なんですかね」と聞いてみると「え、朽野さん。何を言っているんですか?」と言われたのが最初の違和感だった。

 私は動揺した。聞き取れなかったのかもしれないと、もう一度言ってみることにした。

「え、だって、雨の日に電話ボックスに近づいたら危ないですよね?」

「いやいや。別に危なくもなんともないですよ。あ、もしかして水野さん。都市伝説かなにかですか? それ」

 面白い話を期待していますよと言わんばかりのニヤリ顔で私を見る朽野さんを見て、私は空恐ろしくなった。

「あはは。そうなんです。バレましたか」

 私はそう言って話を合わせた後に「けれど話の内容をど忘れしちゃって。すみません。忘れちゃってください。ど忘れだけに」とチャラけて話を流すことにした。

「ははは。なんですかそれ。一周回って面白いです」

 

 あれからすぐに私は同期の朽野さんを誘って喫茶店に入った。故郷と東京に存在する“ズレ“を明らかにする良い機会だと思ったからだ。

「あ、いけない。すみません、朽野さん。少し電話してきます」

「はい。ごゆっくりどうぞ」

 私はそそくさと喫茶店の軒先へと躍り出て、携帯で両親の家に連絡を取った。

「もしもし。瑞樹だけど」

「あら。瑞樹? 急に電話なんか掛けてきてどうしたんだい? ⋯⋯ところで今日は雨だから電話ボックスには気を付けるんだよ」

「そのことなんだけど。どうして電話ボックスに気を付けなきゃいけないの? 東京の人達は平気で電話ボックスの近くを通り過ぎていくよ? 雨なのに」

「そっちの人達は貰うだけだから分からないの」

「え、貰う? なにを? どういうこと?」

「あなたは知らなくて良いわ」

「え、嫌だよ。このままじゃ気持ちが悪いよ」

「良いわね? 瑞樹。雨の日に電話ボックスには近づいちゃダメよ。決して」

 それから何度問いただしても、母は近づいてはいけない理由を明かすことはなかった。「もういい!」と、私は大声で叫んでから通話を切り、喫茶店へと戻る。

 猛烈に頭に血が上っていた私は、朽野さんにお願いをした。

「あの、朽野さん。ちょっと付いてきて欲しいんですけど」

「え、付いていくってどこに?」

「電話ボックスです」

 

 私は朽野さんに先導してもらって、電話ボックスの前までやってきた。

「ははは。どうしたんですか水野さん。そんな怯えたような素振りして。騙されませんよ」と朽野さんは笑った。

 朽野さんは私が都市伝説の話をもう一度しようとしているのだと、勘違いしているようだった。自分を怖がらせようとわざと怯えたフリをしているのだと思っているのだろう。しかしこちらは本気で怯えていた。人生で初めて、雨の日にここまで近づいたのだから。いったい何が起こるのか怖くてたまらない。

 それでも私の中で怒りと好奇心が勝ってしまった。これまで誰も教えてくれなかった近づいてはいけない理由。何度しつこくお願いしても“あなたは知らなくて良い“と一点張りをする母親。実は自分だけ除け者なんじゃないか。馬鹿にされているじゃないかという気がしてくる。

 ——本当は自分以外の皆は全てを知っているのではないか。

 目の前でニヤニヤしている朽野さんだって、実は知らないフリをしているだけなのかもしれない。

 あれこれ思考して大義を挙げてみたが、結局のところ謎を残したままにするのが私は気に食わないだけだ。このまま煙に巻かれて、近づいてはいけない理由を知らないままでいるのは気持ちが悪い!

 私は無言で自分を奮い立たせ、ずんずんと電話ボックスの扉前まで近づいていった。どうにでもなれの気持ちで扉を引き開けて、中へと入った。

 ⋯⋯え? ⋯⋯あれ? ⋯⋯え? ⋯⋯え?

 これまで聞こえていた雑踏、走行音、雨音。それらがプツリと途切れた。

 それだけではない。空は赤黒く染まり、建物は白いクレヨンで塗られたような姿に変わっていた。目を凝らすと、先ほどまでビルだったものの隙間に、一際大きい物体がそびえ立っているのが見えた。その物体は細長く、上の方は赤黒い雲にすっぽりと覆われていた。物体を囲うようにして、沢山の青と紫の燐光が螺旋状に地上へと舞い降りている。極めてゆっくりと。絶え間なく。

「どうどうどう」

 ——それは壊れたスピーカーから漏れたような重たい電子音だった。恐る恐る振り返る。

「でででででで」

 朽野さんが錆びた棒になっていた。棒は百六〇センチほどで、朽野さんの身長と同じ長さに思えた。棒の上側にはメガホンがくくりつけられている。

「すすすすすす」

 メガホンから恐ろしい音がやってくる。私は耐えきれなくなり、電話ボックスの扉を急いで押し開けた。

 ——世界に色が戻る。曇り空に暗い影が落ちるビル群。行き交う人々の声と雑踏。人間の形をした朽野さん。

「大丈夫ですか⋯⋯? 電話ボックスに入った途端、身動き一つしなくなっちゃって」

 今までの余裕さはどこかに行ってしまったようだった。笑みは消え失せ、私を気味悪がっているように見える。だがそれはこちらも同じだ。この世界はイカれていた。

 

 私は朽野さんの相手をすることもなく、駆け出していた。

 目指した場所は東京に高く聳えるグランドタワー。四六時中、観光客で賑わう絶景スポットであり、全国にデジタル放送を提供する電波塔でもある。

 電話ボックスの中から見たグランドタワーは異質だった。本体に真っ赤な光を纏い、青と紫色の燐光がその周囲をぐるぐると回りながら舞い降りていた。そしてこの世界で見るよりも何倍も長かった。なにせ雲を貫いてしまっているのだ。いったいどこまで伸びているのか。

 どうして電話ボックスに近づいてはいけないのか、なぜ東京の人達がそれを知らないのか、あの世界はなんなのか。詳しいことを知る余裕は今の私にはなかった。とにかくグランドタワーに向かい、上へ登り詰めれば全て分かるのではないのかという直感があった。

“ここにいたくない“

 そんな想いが私を突き動かしていた。

「ここから先は立ち入り禁止です!」

 高いお金を払った観光客のみが入ることが許されている最上階展望台。ここより上は立ち入り禁止になっていた。

 だが私は係員達の制止を振り切って、立ち入り禁止区域へと足を踏み入れる。

 上へ上へと伸びる階段を一心不乱に登っていく。息が上がっても、足が鉛のように重くなっても、構わず上り続けた。

 次第に空の色が赤黒く染まっていく。後方から聞こえていた係員達の声は壊れたスピーカーのような機械音へと変わっていった。私が階段を登る音、空調の音は消え失せ、私の呼吸音と係員達の重い音声だけが耳にやってくる。

「ま、ま、ま」

「てててててて」

 薄い膜のようなものを突き破る感覚があった。

 それはシャボン玉に似ていた。湾曲した虹が薄く引き延ばされて、引き延ばされて——吸い込まれるように後方へと消える。

 すると階段と周囲の物が濃紺のクリスタルのようなものへと変貌した。クリスタルの中では真っ赤なアメーバ状の液体が蠢いている。

 ここは——この世界はいったいなんだ?

 全身から吹き出す嫌な汗と、粟立つ鳥肌が本能的に恐怖を感じていることを知らせてくる。だが止まるわけにはいかない。この先に知りたい答えがあるかもしれない!

 

 音の無い世界の終わりは唐突だった。

 エレベーターだ。上に登るボタンしか付いていないエレベーター。無機質な鉄の扉が私の前に立ち塞がっている。

 私は迷うことなくボタンを押した。無音で門が開いていく。

 ——中には暗闇が広がっていた。

 私は恐る恐る空洞に顔だけ入れて頭上を見上げた。どこまでも続く闇が広がっている。

 次に下を見る。こちらも闇が広がっていた。

「いか、いか、いか」

「ないないないない」

 後方から係員だった“もの”が迫っている。私に躊躇する時間はなかった。

「でででででででで」

 私は闇の中に身体を預けた。すぐにやってきたのは急速に落下していく感覚。

 もしかしてこのまま死ぬ⋯⋯? 嫌だ⋯⋯いやだ!!

 闇の中でもがいた。飛び込んだエレベーターの入り口はもう見えない。いつの間にか落下している感覚は消え、今自分がどういう状態にいるのか全く分からなかった。既に死んでしまったのかもしれない。

「嫌だ⋯⋯!! 死にたくない!!」

 私はとにかく目を瞑ってもがき続けた。なにも分からずに死んでしまうのはどうしても嫌だった。自分を取り巻く常軌を逸脱した現象は、これまでの常識が偽物だったことを意味している。本当を知らずして、誰が満足のいく生き様を晒せるというのか! 私は本当を知りたい! 知りたいんだ!

「うわあああああ!!」

 ——その時。声が反響した。私の声が反響したんだ。それはつまり周囲に音があるということだった。もがいていた両手が何か硬いものにぶつかる。

「え?」

 思わず目を開ける。薄緑色の透けガラスが視界を覆っていた。ガラスの先には円形の天井が広がっていた。とても高い。野球場なのではと思ってしまうほどの巨大なドーム状建造物のようだった。

 煩雑だった意識が整ってくると、なにやら駆動音のようなものが聞こえてきた。どうやら自分の真下から鳴っているようだ。

 機械の中?

 ふと薄緑色の面に手を当てると、乾いた音が鳴って頭上の穴にガラスが吸い込まれていった。真下から聞こえていた駆動音があちらこちらから聞こえてくる。三つや四つという桁ではない。大量という表現がふさわしい。

 血の通っていない身体を奮い立たせて、身体を起こす。

 目の前には異様な光景が広がっていた。

 卵形のカプセルが広大な空間にびっしりと埋まっていた。薄緑色の透けガラスの奥には人影が見える。自分も今しがたまで彼らと同じ状態だったということに思い至るのは容易かった。

「おや。目を覚ましたのか。物好きなやつだ。管理側だと言うのに」

 私のもとに一人の男がやってきた。歳は二十代後半といったところだろうか。その姿は紺のスーツに黒縁のメガネ。いかにもビジネスマンといった風だ。

「あ、あえう⋯⋯う?」

「無理に話さなくて良い。聞きたいことは分かっている。後ろを見なさい」

 私は彼に言われるがまま、振り向いた。

「あ、あ、あ⋯⋯」

 巨大な透明のパネルの向こうで、ありとあらゆるものが燃えていた。ほとんど白に近い世界でごうごうと陽炎が揺らめき、みるみるうちに建物が燃えて、灰になって、溶けていく。

 ——消滅。

 そう表現するにふさわしい光景だった。

「太陽が落ちてきたんだ」

「うえ、あ、あ!」

「この世界はもうすぐ終わりを迎える。だから終末プロジェクトが始動した。記憶を元から抹消して、第二の人生を始めるプロジェクトさ。永遠とも思える夢の中で、ね」

 終末プロジェクト? 第二の人生? 

 私は目の前の光景に恐れ慄くばかりで、まともに思考を働かせることができなかった。

「ここで眠る人たちの百年が、ここでの一秒」

「う、う、う、う⋯⋯」

 彼は全ての感情を噛み殺したかのような笑みを浮かべて言った。

「僕たちの今も、みんなが見ている夢だったら良いのにね」

 私はすすり泣くことしか出来なかった。

 ——残り何秒もつか分からない世界で。