狐の嫁入り

菅部 享天楽

 

 「ねえ、本当に行っちゃうの?」

 彼女は立ち上がってそう言った。僕は足を止めて振り返った。

「ごめんね。僕はここを離れないといけないんだ。でもまた帰って来るよ、必ずきっと」

「なら……」

 彼女は息を吸い込んでこう叫んだ。

「帰ってきたら私をお嫁さんにしてくれる?」

 言い終わると、今にも泣き出しそうな顔で黙ってこちらを見つめる。右足を引きずりながらこちらに近づく。

「勿論」

 僕は笑顔でそう答えた。すると彼女も安心したようで笑ってくれた。

「約束だよ」

 

 

 

 あの約束から十年以上の月日が流れた。あの時は父転勤でこの地を離れざるを得なかった。その後も転勤した所から近い高校に通い、大学は更に遠い場所に行った。そして、就職をしてここに戻ってきた。

 僕は頂上を目指して石段を登っていた。人が三人並べば簡単に埋まってしまう程狭い。石段の両脇は背の高い杉が鬱蒼と生えていて、羊歯や苔が繁茂している。時折アオバズクのホオホオと鳴く声が聞こえる。

 中腹に差し掛かった頃、ポツポツと雨が降り始めた。

「あれ?」

 私は不思議に思った。空には雲など一片もないからだ。僕は立ち止まって、下山するか否か迷ったが、頂上が見える位置にあり、時間が経てば止むだろうと楽観的に考えて、そのまま歩みを進めた。

 頂上には石造りの鳥居がある。謂れは良く分からないものの、随分と昔からあるようで、小さな亀裂をいくつか確認できた。境内のあちらこちらには色彩豊かな紫陽花が咲いている。雨が小石を叩く音に合わせてどこかで蛙が歌っている。その声を聞きながら、手水舎に向かった。柄杓で水を掬い上げると蛙が捕れた。蛙はピョンと逃げ出し、拝殿へ飛んで行った。僕はその蛙を意味もなく目で追いかける。数歩駆け出して、止まった。

「久しぶりだね……。本当に来てくれたんだ」

 拝殿の階に一人の女性が座っていた。その女性は花色の着物に薄緑色の帯を巻いている。蘇芳色の蛇の目傘を差して、それを時折くるくる回す。

「杏世(あんよ)、遅くなってごめん」

 杏世はゆっくりと立ち上がった。長い、豊かな黒髪がはらりと揺れた。右足を引きずりながら、こちらに歩み寄って蛇の目傘に入るよう手招きをする。

「気にしてないよ。それより早く来て。風邪引くよ?」

すると、頭から獣の耳がひょっと顔を出した。続いて着物の裾から稲穂のような尾が出てきた。杏世は人間ではない。彼女はこの神社に住む狐だ。普段はこのように人の形を象っている。

 

 

 

「他の人が来たらどうするんだよ。尾と耳をしまいなよ」

「雨が降れば人も来なくなるよ。雨天の山中は足元が危ない故」

「もしかして、杏世が降らせたの?」

「ふふ、どうでしょう?」

 彼女はお道化て笑う。僕は彼女の持つ傘に入った。雨がパツパツと傘を打つ。

 そう言えば、彼女と出会ったのも雨の日だった。僕が遊びにここへ訪れた時、夕立に遭い、拝殿で途方に暮れていると、杏世がこの蛇の目傘を貸してくれたのだ。これをきっかけに彼女と話すようになった。

「なあ、あの約束のことなんだけど」

 僕は杏世にあの日の話を持ち掛けた。すると、

「ああ、その話なんだけど……」

 と言って、ばつの悪そうな顔をした。

「どうしたの?」

 だんまりを決め込んだ杏世に訊いた。

「ごめん。一緒にいられなくなったの」

顔を伏せ、ぼそりと答えた。僕は暫く彼女の言葉の意味を理解することができなかった。雨音や蛙の合唱、アオバズクの鳴き声がかき消された。

「そ、それはなんで……?」

「ほんとにごめん」

 雫が彼女の頬を伝う。杏世は無理矢理、蛇の目傘を押し付け、拝殿の裏手へ走って行った。僕も急いで後を追う。角を曲がり、杉の林に入る。すると、前方に石造りの円い古井戸が見えた。彼女はそれに躊躇なく飛び込んだ。僕は両手を縁にかけて、中を覗き込む。そこにはただ闇が広がっていた。深さなど皆目見当がつかない。まるで地獄の入り口のようだ。しかし、ここを通らなければ、彼女を追うことができなくなる。僕は傘を地面に置き、縁に立って深呼吸をした。意を決して穴に飛び込んだ。恐怖のあまりに出た叫び声は暗闇に消えていった。

 

 

 

 気が付くと畳の上で横になっていた。ゴロンと仰向けになると格天井が広がっている。どこを見ても穴は開いていない。どうやってここに来たのだろうか?

 体を起こし周囲を確認する。部屋は二十畳はありそうな広い和室だった。床の間もきちんと設けられており、そこには掛け軸や花が飾られている。欄間には松の彫刻が彫られている。それなりに豪華な日本家屋、或いは武家屋敷に迷いこんだようだ。

 僕がきょろきょろと辺りを見渡して困惑していると、廊下から、誰かの話し声と足跡が近づいてくる。

「間もなく祝言を挙げると言うのに、肝心な杏世様はどこに行かれたんだ?」

「分からん。兎にも角にも、杏世様を見つけ出さねば」

「今宵は各地から名だたる妖狐がお見えになるのだぞ! 見つからなければこの屋敷のしもべ共は暇を出される。勿論我々もだ」

 タッタッタと足音がこの部屋の横を通過する。僕は障子に映った影を見た。それは形は人だが、尾が生えていて、頭は狐だった。どうやら、二匹の狐が並んで歩いているようだ。

「おおーい、おおーい」

 ダダダダと走ってもう一匹狐の影が現れた。

「杏世様がお戻りになられたそうだ」

「そうか、それは良かった。……ん?」

「どうした?」

「ここから人間の臭いがする」

「まさか」

「杏世様は物好きな方だ。よく人間界に遊びに行かれるし、人間のものをよく好む。噂によれば人間の男と恋に落ちていたとか」

「いや、いくら何でもそれはないだろ」

 というやり取りをを狐達がしている間に僕は音を立てないように、そろそろと歩いて向かいの襖を開け、隣の部屋へ逃げ込んだ。ぴったりと襖を閉めて一息つく。狐同士の会話はまだ続く。

「どうだろな。いずれにせよ、杏世様を罠にかけて怪我をさせた人間は許せん」

 障子を勢いよく開ける音が聞こえた。

「ほれ、やっぱり気のせいじゃねえか」

「ふん」

 バタンと障子の閉まる音がした。僕は両手をついて、身を低くし、息を潜めて家蜘蛛のように地面を這った。畳には薄く埃がかかっており、よく見ると、所々に黴(かび)が生えている。隅には使い物にならないような調度品が乱雑に置かれていた。

急いで杏世を見つけ出して、ここから出なければ、先程の狐やその仲間達に袋叩きにされるかもしれない。いや、袋叩きで済めば良い方かもしれない。じっとしていても仕様がないため、抜き足差し足忍び足で襖に近づき、そおっと開こうとした。すると、

「要らないものはこの不要の間にい~、な~んてね」

 襖が開き、中から狐の顔の童女が現れた。童女は欠けた土鍋を手にしている。彼女は僕の姿を確認するや否や悲鳴を上げ、「人間がいる」と叫んだ。足音が何処からともなく聞こえてきて、間もなく残り三方の襖が開かれた。大勢の男の狐達がこちらを睨みつけている。

「あ、ど、どうも」

 笑って誤魔化そうと試みるが、効果は皆無。というか、何を誤魔化そうとしたのだろうか。やった本人も分からない。僕は童女の狐を突き飛ばし、隣の部屋に逃げ込んだ。正面の襖を開け、気持ち程度の時間稼ぎに閉めていく。そして、右、左、左、正面と通る部屋を変えながら逃げていく。狐達は声を張り上げ、馬、牛、鹿に猪と姿を変えて迫って来る。襖を突き破りながら、雪崩れるようにやって来るため、時折、木屑が飛んで来てそれが頬を掠めた。獣達は部屋中に馬蹄音を轟かせ、咆哮を上げる。

 それにしてもここはどれだけ部屋があるんだ! 襖を開けても開けても部屋、部屋、部屋。旅館顔負けの部屋数である。

「ん?」

 上から黒い羽根がはらはらと舞い落ちてきた。走りながら見上げてみると、鴉が一羽、頭上で飛んでいた。鴉は宙で狐の姿に戻り、僕を上から押さえつけた。うつ伏せになった僕は必死に手足をばたつかせて見せたが、全く歯が立たない。

「こおんのお!」

僕は肘を思い切り振り上げた。すると、どこか、硬い所を肘打ちした。振り返ってみると、狐が唸り声を上げて鼻を押さえていた。可哀想だと思ったものの、彼はそのままにしておく。目の前は今までの部屋とは異なり、正面は壁だった。右の襖を開けようとした時、凄まじい速さで猪が突っ込んで来た。気付いた時にはもう遅く、右足に体当たり。壁を突き破ってしまった。漸く外に出られた、のだが……

「え、ここ二階だったの?」

 屋敷のすぐ隣に生えていた巨木らの枝をバキバキ降りながら、落下していく。地面にぶつかったかと思えば、そこは坂になっており、体中に泥を付けながら、丸太のように転がった。太い、種類の良く分からない木にぶつかり、やっと止まった。ポツポツと雨が降っている。うつ伏せのまま前を見てみると、お花畑ならぬ紫陽花畑が広がっている。匍匐前進で紫陽花畑の中まで進み、息を整えた。右足の痛みと疲れでもう動けない。もし今狐が来たら一巻の終わりである。ところが、土を踏み分ける音が聞こえてくる。しかも近づいてくる。もうだめだ。あまりにも絶望的過ぎて恐怖心も緊張感もない。清々しいとさえ感じる。ついに足音が目の前で止まった。

「良かった、見つけられて」

「杏世!?」

顔上げてその姿を見た。そこには白無垢姿の杏世が立っていた。僕は痛む体に鞭を打って無理矢理起こした。

「杏世、一緒に帰ろう」

「ごめんね、それはできないの」

「なんで……」

 杏世は膝をつけて僕をそっと抱き寄せた。

「杏世、白無垢が……」

「いいの、それくらい。それくらいはいいの。それで最後にあなたを抱き寄せられるなら、いいの」

 杏世は雨のような大きな粒の涙を流した。

「なんだか、紫陽花の傍でこうして二人でいると初めて会ったときのことを思い出すね」

「それは、君が傘を貸してくれたとき?」

「違うよ、それより前。紫陽花の近くにあった獣の罠にかかった私を助けてくれたでしょう? 土砂降りの中、足に引っ掛かった罠を外してくれたよね」

「……あの時の!」

「そう。だから今度は私が助けるの」

 そう言うと、杏世は僕の背中を摩りながら、歌を歌った。それは子守唄のようで、どこか懐かしくて、心地よい気分になった。

「私から約束したのに、ごめんね」

 意識が遠のいていく中、心臓を切り裂くような杏世の悲しい声だけがはっきり聞こえた。

 

 

 

 目を覚ますとそこは杉の林の中だった。すぐ近くに蛇の目傘が置いてあった。立ち上がって辺りを見回したが、古井戸は見つからなかった。

 僕はただ呆然とその場に突っ立ったまま、雨に打たれた。

 空は暗雲で埋め尽くされている。