炎と鍋

菅部 享天楽

 

 コンロの炎というのは実に良い。弱弱しくゆらゆら揺れる青い物体が、円を作って懸命に己の役割を全うしようとする姿は本当に愛おしい。かと言ってこちらが手を差し伸べようとすると、理不尽極まりないしっぺ返しをくらう、まるで反抗期の娘のようである。実に可愛らしい。

 しかし、ここ最近はオール電化などとつまらない生活様式が世の中に蔓延り、コンロが凄まじい勢いで消滅している。全くけしからん事である。安全だとかほざきやがって。まるでコンロが危険だと言うかのようである。はっきり言おう。コンロは決して危険ではないと。普通に扱えば何の問題もないだろう。自分の不注意を他人のせいにしないで頂きたい。

さて、このように向かい風が吹きつけるコンロだが、この炎を思う存分楽しめる料理がある。それが鍋である。鍋はコンロの火を眺めながら食事ができる、まさにコンロのためにあると言っても過言ではない料理だ。それにそれほど手間もかからない。食材を切ってスープに突っ込めば良いのだから。

 古今東西、数多の鍋がある。その中でも私が特におすすめしたいのはすき焼きである。割下がたっぷり染みた牛肉を新鮮な卵と絡めて……などということはどうだっていい。それよりも一般家庭にある土鍋をイメージしてほしい。炎が直接面する底の部分は大抵淡い茶色、まあ、せいぜい黄土色であろう。それを火にかけて下から見てほしい。何と悲しいことだろう。底の明るい色のせいで、折角の炎がまるで見えないではないか。しかし、すき焼き鍋はどうか? 全体が真っ黒の鉄鍋で作られるそれは、下から見ると、コンロが噴き出す青い炎の輪郭をくっきりと映し出す。おお、そうだ。今宵はすき焼きにしよう。

 私は妻に今晩はすき焼きにしようと提案した。妻は二つ返事で了承した。早速私達は車でスーパーに行った。牛肉、ネギ、白滝、椎茸にエノキ。焼き豆腐と白菜を買って帰宅した。帰宅したら早速準備に取り掛かる。私が食材を切って、妻と娘がコンロや鉄鍋を準備する。全ての食材を良い塩梅に切ったところで、ボウルに食材を円グラフのように盛り、食卓へ運んだ。テーブルにそれを置き、ふと鉄鍋を見て私は愕然とした。

 鉄鍋は既にセッティングがされていた。その傍に取り皿と卵が準備されている。後は具材を入れて火をかけるだけだ。問題は鉄鍋が乗せられているそれである。なんと、カセットコンロではなく、卓上電気コンロだったのだ。あ、あり得ない。カセットコンロがあったはずであろう? 

 私は思わず、このIHはどうしたのかと訊いた。すると、最近買い換えたと言うのだ。

「IHの方が安全だからね」

 な、なんだと?……。まさか我が家にまで「コンロ危険」の風潮が侵食していたとは……。ぶつけようのない怒りが、鍋のようにグツグツと煮え上がった。それと同時に何のためにすき焼きを提案したのかという虚無感に苛まれた。私は崩れ落ちるように席に着いた。

 そんなことも露知らず、妻はコンロの電源を入れた。ああ、こんなものをコンロと呼ばなければならないのか……。実に屈辱的な気分である。コンロはピッと音を鳴らして反応、ほどなくして微かにファンの回る音も聞こえてきた。こういう小さな機械音を聞く度に青い炎が恋しくなる。

 眺めるものが何もないので、鉄鍋の中に視線を移した。そう言えば、すき焼きを作る様というのを見たことがない。

 妻は十分熱された鍋に牛脂を入れると、菜箸でそれを解かしながら全体に伸ばしていく。そして、ボウルを手に取り、ネギを摘まんで焼いた。ある程度焼き色がついたところで牛肉を広げて入れる。さっと焼いた後に割り下を注ぎ、野菜を加えて蓋をする。ほお、すき焼きは入れる順番が決まっていたのか。鍋料理だから、てっきり適当にドボンかと思っていた。

 暫くして、妻が蓋を開ける。食欲をそそる香ばしい醤油の匂いが白煙と共に溢れ出す。鍋の食材は小気味よく震え、今まさに食べ頃だと必死にアピールしている。私は肉と白菜を取った。肉をしっかりと卵に絡め口に運ぶ。

「うまい……」

 柔らかい肉に甘辛い醬油の割り下がしっかり染みており、まろやかな卵と相性が抜群に良い。何が「割下がたっぷり染みた牛肉を新鮮な卵と絡めて……などということはどうだっていい」だ。どうだっていいことなどないではないか。

 

 そうか、すき焼きのメインは牛肉だったのか――

 

 どうやら、今まで私はとんでもない勘違いをしていたようだ。炎に執着するあまり、本質を見失うところであった。

「明日は水炊きにしよう」

「何言ってんのよ。続けて鍋なんてするわけないでしょ」

「じゃ、じゃあ次の鍋はいつするんだ?」

「え、ええ? 暫くやらないわよ」

 ああ、鍋が暫く食えないとは……。早くもIHの鍋が恋しくなった。