淵のヌシ

菅部 享天楽

 

 私の住む町には森があり、そこに赤羽淵という淵がある。

 その淵は何故か溺死者が後を絶たない。そのせいで、昔、この辺りに城を構えていた何とかという殿様の姫が叶わぬ恋の果てに身を投げて、その呪いが今も残っているとか、強欲の某が六部を突き落としたとか、淵の主が魂を啜っているとか……根拠のない噂話が淵に沈む泥のように蓄積されていき、いつの間にか曰く付きの恐ろしい場所と認識されるようになった。実に馬鹿馬鹿しい話である。

 淵というのは、生き物が豊富に生息していると相場が決まっている。泥や有機物が沈殿しやすいため、プランクトンや藻類が繁殖しやすいのである。川魚の一匹や二匹は釣れるかもしれない。食える魚が獲れれば、焼いて食う。私は釣り具を抱えて森を進んでいった。

 昼間だというのに、森の中は薄暗かった。早春というのも相まって、異様に寒い。羊歯や名前の良く分からない草が地面を覆い、唯一日が当たる所には苔が分厚くへばりついている。私は植物については詳しくないのだが、噂も相まって殆ど手つかずの雑木林と化しているため、貴重な植物が繁茂しているのではないか? と思っている。だが、そんなことはどうだっていい。私が欲しいのはあくまで魚である。私は小川に沿って淵を目指した。

 淵には五分ほどで着いた。小さな滝が近くに流れているだけで淵は穏やかである。その水しぶきの音が静寂を一層強くする。

 すりガラスのような淵に釣り糸を垂らす。ルアーを動かしながら、魚が食いつくのを待つ。時折冷たい風が葉をカサカサと揺らし、首筋を撫でた。私は亀のように首をひっこめた。

 どれだけ待てど、魚は食いつかない。私は缶ビールを飲みながら、魚を待った。畜生、新鮮な焼き魚と共に飲みたかったというのに。まったく、寒くてかなわない。もう、帰ってしまおうかとも思ったが、私の負けず嫌いが発動してしまい、益々、釣りに熱中した。

 寒さと苛立ちで頭がぼんやりとしていたころ、突然、糸が凄まじい力で引かれた。不意の出来事に態勢を崩したが、すぐさま整えて糸を巻いた。それにしてもとんでもない力だ。海釣りでもこんなに強く引っ張られることはない。大物に違いない。何が何でも釣り上げてやろうと手に力が入る。得体の知れない魚に恐れはあるものの、誰も見たことのない貴重な生物を手にできるかもしれないという高揚感が勝り、目の前の獲物に没頭した。正体不明の何かは奥へ奥へと進んでいく。私は何度も竿を引き、糸を巻き続ける。

 ところが、手ごたえは程なくして消えた。私は喪失感に苛まれ、腕をだらりと下げたまま、淵を眺めていた。淵は相変わらず静かである。あまりにも激しい戦いだったため、他の生物は遠くへ逃げたかもしれない。そう思うと、一層やるせなくなり、中途半端に空気が入ったエアー看板のように、ガックリと肩が落ちた。そして、どうでもなってしまい、釣り具を片付けた。淵から去ろうとした時、水面が急に激しく波打った。もう一度あの何かがやって来たのかと、急いで釣り具を取り出す。ところが、謎の生物は先程と違い、こちらにぐんぐん近づいてくる。そして、水中から水かきのついた緑の手がすうっと伸ばし、私の右足を掴んだ。思い切り背中を打ちずるずると淵に引きずられる。私は咄嗟に左足をじたばたさせた。すると、ごんと何かにぶつかった。それと同時に手を離した。逃がしてなるものかとその腕を掴み、陸に引き上げた。

 

 淵というのは、生き物が豊富に生息していると相場が決まっている。泥や有機物が沈殿しやすいため、プランクトンや藻類が繁殖しやすいのである。

 確かにその通りである。その通りなのだが……。

 目の前には胡坐を掻いて頬杖を突いた河童がいる。生き物が豊富とはいえども、河童もその対象内だとは思わなかった。

 私は何故こんなことをしたのかと訊いてみた。するとこんなことを言った。

 かつてはどの川にも多くの生き物がいた。小さな小川にも流れの速い大きな川にも多種多様の生き物がいた。しかし、人間が田んぼに水を引き、汚物を流し欲望に従順になって生物を食い荒らしたため、水の流れが変わり、住める環境もなくなり、生き物そのものも捕られて、自然の摂理が歪められてしまった。だから、人間を引き入れて、この現状を見せつけて、殺してしまおうと思い立ち、何人もここに沈めたという。

「昔は小川を両手で救うだけでメダカが獲れた。だけど、今は何が獲れる? 泥とゴミしか取れやしない、だけれど俺もすっかり老いてしまった。力も衰えた。もうここらで潮時かもしれん」

 河童はそう嘆くとトボトボと歩いて淵の中へ消えていった。何か声をかけようとしたが、憎悪の対象である私のような人間に、何を言われても不快でしかないだろうと思いやめておいた。

 辺りを凝らして見てみると、羊歯の陰に沢山のゴミを見つけた。私は今の今まで全く気付かなかったのである。