水たまりのオタマジャクシ

菅部 享天楽

 

 

 僕たちが生まれた時、辺りは真っ茶色だった。激しい水の流れに、貧弱なオタマジャクの僕たちでは、為す術もなく、漂う雲のように水の行くところに身を任せることしかできなかった。共に生まれた兄弟たちはころころ地面を転がり、体に傷を負いながら進んだ。中には深手を負って死んでしまう者もいた。僕たちはどこへ向かうんだろう? そんな不安を抱えながら転がり続けた。

 

 

 

 気が付くと視界はすっかり明るくなっていた。周囲を見渡すと田んぼから相当離れた所まで流されたようだ。どこへ流されたのか、試しに泳いで回った。深さは殆どなく、頭が微かに出ている。底には兄弟の死体がそこらにごろごろ転がっていた。

 辺りを散策して自分がどこにいるのか分かった。僕達は神社の境内の水たまりにいた。皆が食べ物を探し求め忙しく動き回るが、豪雨でできた即席の池にはそんなものあるわけもなく、お腹を空かせるだけだった。

 ふと、兄弟が地面に転がっていた遺体をむしゃむしゃと貪り始めた。それを見た他の兄弟も一斉に飛びついた。同胞の体があっという間に見るも無残な姿になっていくのである。僕は怖くて隅の方に身を潜めていた。水面が激しく揺れ、飛沫が舞い、ただでさえ蒸発しているのに更に水量が減っていく。

 ある時、僕が目立たない所で丸くなっていると、一匹の兄弟が声を掛けてきた。僕より一回り小さいオタマジャクシである。

「大丈夫? 随分と怯えた様子だけど」

「いや、怖いでしょ。君は怖くないのかい? 心配じゃないのかい? 死んでいるとは言え、食い合っているんだよ?」

「それは、怖いし不安だけど、これを乗り越えて大人になれたら色んな所に行けるんだ。だからじっと耐えようと思うんだ」

「それはそうかもしれないけど……」

 ならその時まで兄弟の血肉を食らいながらいつ干上がるかも分からない水たまりの中で暮らせと言うのだろうか?それまで耐えられる気がしなかった。

「僕はそれまで我慢できそうにないな。オタマジャクシなんてうんざりだ。生まれ変われるなら今すぐにでも別の生物にでもなりたいよ」

「生まれ変わりなんてのはないよ」

「夢のないことを……」

「死んだら星になるんだ。だから生まれ変わりはないんだ」

  誰から聞いたか知らないが、その兄弟はそんなことを言った。

 小さな水たまりでは日に日に生存競争が激化していった。死体が粗方なくなると、今度は弱った仲間を寄って集って襲い始めた。黒い塊がバシャバシャと激しく波を立てたかと思えば、一斉に散って何事もなかったかようにしんと静まり返る。そんな日が続いた。

 ある時、僕達にとって最悪の事態が訪れた。黒い羽根を持ち、赤い眼光で獲物を探す水面を逆さまで泳ぐ絶望の具現、松藻虫が僕たちの水たまりへやって来たのである。兄弟を一匹一匹捕まえ細長い口で解かしながら、ちゅうちゅうとそれを啜るのだ。僕は底にへばりつき、地面になりきろうとその場から動かなかった。というより動けなかった。動き回ったところで松藻虫の速さには勝てないのだから。一瞬の水の音と絶え間なく聞こえる断末魔が水たまりに響いていた。

 

 

 

 どれほど時間が経ったか分からないが、松藻虫はどこかへ飛び立った。僕は安心して水たまり内を泳いだ。水たまりの広さは初日から1/10程度にまで狭くなっていた。そして、兄弟はというと、誰一人いなかった。死体すら残っていなかった。あの喧騒が嘘のようだった。

 不思議だった。あの仲間を食らう租借音や断末魔、飛沫の音が恋しかった。あれだけ不快だったのに、本当に奇妙なことがあるものだ。「生」に執着し、決死の覚悟で兄弟で争い、必死になって命を食らった者達が先に逝き、争いから逃げてきた僕が生き残る。皮肉な話だ。笑い話にもなりやしない。

 そう言えば、死んだら星になると彼は言っていたが、星になったらどうなるんだ?僕は空を見上げた。

 空は藍色に染まっていた。その中にまばらに光が差している。美しかった。襲われないように毎日兄弟達から目を離せず、頭上等見る余裕なんてなかった。すぐ傍に素晴らしい物があったなんて知らなかった。こんなに澄んだ水で小石のような光を眺めながら泳ぐことができたらどれだけ気持ちがいいだろうかと想像してしまった。

「あ」

 この神秘を何かが横切った。それは丸いものに尾を引いた光だった。その姿はオタマジャクシそのものだった。それに続いて、次々に光るオタマジャクシが流れていく。

 ああ、そうか。星になると言うのは本当だったのか。あの美しい水を兄弟達と争うこともなく泳ぐことができるなら、平和に過ごせるなら、それはそれで悪くないかもしれない。そう思うと死も怖くなくなってきた。

 

 ――ああ、僕もそこに混ぜておくれ。