時渡りのチョコレート

上坂 涼

 

 高層ビルの最上階から眼下に広がる地上を見下ろした。

「退屈だ」

 思い返せば、金持ちになろうと四六時中あくせくしていた時代が一番楽しかった。地位も名誉も盤石となり、金を湯水のように使える今となっては、刺激を得られる娯楽を見つけるのは非常に難しくなっていた。ダンス、ゴルフ、乗馬、宇宙旅行、違法賭博、地下闘技場、最高級合法ドラッグなど。金持ち界隈の表から裏の隅々まで遊び尽くしてはみたが、どれもすぐに飽きてしまった。人の欲であったり、権威を金で買うような感覚があって、どうも気に食わなかった。

 愛する妻には先立たれ、心を分かち合える近しい存在もいない。いっそ新しい妻を十人ほどもらって、共同生活してみるか。……いや、どうせすぐ飽きる。やめておこう。

 私は白髪交じりの髪をかき上げ、贅沢を蓄えた腹を擦った。

「ブラブラするか」

 隠居してからというもの、結局ああだこうだ悩んだ挙句に散歩をするという答えに至る。若い頃は老人といえば散歩という計算式がよく分からなかったが、最近になってその計算式が身に染みてきた。とにもかくにも退屈なのだ。事実は小説よりも奇なりと誰かが言うように、人のアイデアや設計図に沿って展開される創造物よりも、予想だにしなかったドラマを自身の目と肌と耳で感じたい。それがたとえ公園で思わず転んでしまった幼児だろうと、誰かの悪口をドヤドヤと語り合っている井戸端会議でも構わない。そこにいなければ知りえなかった出来事であることが大事なのである。

 

 高級住宅街を駅とは反対側へ十分ほど歩き、簡素な住宅街へと出る。ここら一帯に住む人間は高級住宅街に住む人間へと憧れを抱く者ばかりだというが、それはこちらも同じだった。どうしても保身が邪魔をしてしまい、戻ることの出来ない質素で温かみのある暮らし。上を目指して邁進する日々。羨ましい限りだ。

「おや?」

 そうこうしてブラブラ歩き回っていると、見慣れない駄菓子屋を見つけた。古めかしい木造建築のいかにもな駄菓子屋だった。正面の外壁には横長の店看板が取り付けられていて『恵御』と書いてあった。

「えおん、かな」

 店名を飾るのは可愛くデフォルメされた蛇。文字をぐるりと囲むように身体をまとわりつかせて、『御』の右肩部分に顎を乗せて笑っている。どこか異質なものを感じ取った私は冒険心に駆り立てられ、自然に店内へと歩みを進めていた。

「こんにちはー」

 引き分け戸をガラガラと引いて、敷居を跨ぐ。外から既に見えていたが、八畳ほどの店内は子供たちで大いに賑わっていた。彼ら彼女らの声に紛れて、私の挨拶は誰の耳にも届いていないようだった。

 ざっと眺め回したところメジャーなものからマイナーなものまで揃えた駄菓子のラインナップに、クリアしたら駄菓子引き換え券が出てくるピンボールゲーム、ワンプレイ五十円のアーケードゲームが置いてあり、子供たちから人気がある駄菓子屋であることは容易に想像が出来た。店内の照明も明るく、内装も綺麗に漆が塗られた光沢ある木の壁が敷き詰められていて清潔感がある。駄菓子屋といえばゴミゴミしていたり、陰気なイメージが強くて人によっては入りずらいものだが、このような造りならばどのような人でも入りやすいだろう。よく考えられている。

 そうやって感心しているのも束の間、店の中央を真っすぐいったところの突き当りに、茨を編んで作ったとした思えない珍妙なお椀型の手提げ籠が置いてあった。それは展示品のように腰の高さほどある木の台座の上にあり、中には金紙に包まれた一枚の板チョコが斜めに立て掛けられていた。子供たちを丁寧に避けつつ、恐る恐る近寄って見ると、これまた展示品のように三角のネームプレートが置かれていることに気付く。展示台のすぐ傍には会計レジが設置された机があった。さらにその奥には一段高いところに障子戸がある。店主の生活スペースへと繋がっているのだろう。

「時渡りのチョコレート?」

「お兄さん、これ、買うの?」

 ふと気付けば丸刈りの少年が横に立っていて、こちらを見上げていた。さしずめ子供たちの小遣いでは到底手に入れることが出来ない高級品なのだろう。子供にせがませて親に買わせるのが狙いの商品といったところだろうか。駄菓子屋にしては商売を頑張っているようだし、戯れに買ってやっても良いな。

 私は少年に愛想笑いを浮かべて言った。

「ああ、これも売り物なんだ。そうだな……買っちゃおうかな」

「みんな聞いた!?」

 すると少年は瞬く間に目をキラキラさせたかと思いきや、勢いよく後ろに振り返った。鳥達が一斉に飛び立ったかのような甲高い歓声が怒涛に押し寄せる。店内に目を向けると、ある少年は獣の如く咆哮し、ある少女たちは手を取り合って赤い靴を履いてしまったかのように踊り狂っていた。これはいったいどういうことなのか。

「一億円になります」

 背後――展示台側からやけに艶やかな声がよくわからないことを言った。振り返ると薄緑の布地に花が咲き誇ったエプロンを羽織る店主らしき人物が笑みを浮かべていた。駄菓子屋の店主といえば年配と相場は決まっているが、この店主はどう見ても二十代前半の若々しさを誇っていた。十代後半ということもありえなくない。

「いかがなさいますか?」

 思考が停止してしまっている私に、店主は追い打ちをかけてくる。たかが金紙に包んだチョコレートが一億円だと? ……ああ、そうか。

「ははは。これで良いかな? しかし駄菓子屋でこれほどの高級品を扱うとはね。面白いよ」

 長財布から一万円を取り出し、店主へと差し出す。

「いえ、これじゃ足りません。このチョコレートは本物の一億円をいただかなければお売りできません。子供銀行もダメです。日本銀行が発行した本物の一万円札を十万枚です」

 冗談だろ? 八百屋とかでよくやる百円のことを百万円と呼ぶのと同じじゃないのか? 本当に一億円? 二口ほどで全て頬張れてしまうこの板チョコが?

「あんた……なにかまずいもんでも包んでんじゃないの? チョコレートじゃないでしょ中身」

「いいえ。チョコレートですよ。カカオの香りも楽しめますし、ちゃんと甘いです」

 チョコレートに一億円の値段をつけるやつがあるか! こいつどうかしてる!

「おじちゃん。チョコレート買わないの?」

 苦悶の表情を浮かべて固まっていると、最初に話しかけてきた少年がとても残念そうな顔でこちらを見上げてきた。辺りを見ると、誰もが少年と同じようにしょんぼりしている。獣の如く吼えていた少年も雨でずぶぬれになったような猫になっていたし、赤い靴を履いたかのように踊り狂っていた女の子二人組もグレた女子高生のように壁にもたれかかって斜め下に視線を投げていた。

「いかがなさいますか?」

 店主は店主で終始笑顔を崩さず、艶やかな声色で問いかけてくる。

 ……なんだか腹がムカムカしてきた。店主の顔はどうせ買えっこないと思っているようにも見えるし、子供たちも期待して損したということを言いたげに思える。私は見くびられることも、期待を裏切らせてしまうことも大嫌いだ。年の数だけプライドを積み重ねてきた。今ここで引いてみろ。店主には鼻で笑われ、子供たちは学校で私の悪口を広めるだろう。そんなことは許されない。許してはならない。……良いじゃないか一億円のチョコレート。面白くなってきた。買ってやろうじゃねえか!

「わかりました。お支払いしましょう」

 私は机を借りて一億円の小切手を切った。

「これを銀行へお持ちください。一億円と引き換えてくれます」

 店主は受け取った小切手をしげしげと眺め、

「いいでしょう。それではこの時渡りのチョコレートはあなたのものです」

 再び店内は子供たちの歓声で埋め尽くされた。獣は吠えたて、少女たちは踊る。私は一億円のチョコレートの入った紙袋を抱え、彼ら彼女らの歓声を背に店の外へと出た。実に心地良い気分だった。久方ぶりに興奮もしていた。まさか散歩しているだけで一億円を使う日が来るとは……これだから散歩はやめられない。

「お客様」

 店を出たところで、追いかけてきた様子の店主に声をかけられた。

「どうしました?」

「一つだけ注意事項が。一ブロックにつき、一日になります。四×六なので計二十四ブロック。二十四日間です。同じだけの時が進むので、人と会う予定がない日に使うと良いでしょう。就寝の際に一ブロックの半分をいただくのもオススメです」

「はあ」

「それでは。貴方に神々の祝福があらんことを。貴方の行動次第で、神によってはまけてくれる者もあるでしょう。頑張りなさい」

 店主は最後に意味深なことを呟くと、まだ冷めやらぬ店内へと戻っていった。彼の言っていたことの主旨が一ミリも理解できなかった。私は脇に抱えた紙袋をジィっと見つめてこう思った。

 このチョコレート、食べても大丈夫か?

 

 書斎のリクライニングチェアにどっかりと腰を預ける。

「ふう」

 思わず漏れる吐息の先には金紙に包まれたチョコレートがいる。私はチョコレートを顔の前に掲げつつ、天井を仰いでいた。

 ……どうしたものか。せっかく一億円もはたいて買ったのだから無性に食べてみたい。食べてみたいが、それと同じくらい恐ろしい。人間とはいくつになっても初めてのことに戸惑うものなのだなと思った。

 しばらく考えた末に導き出した答えはこうだった。

「ほんの一ミリだけかじってみよう」

 一ブロックの端っこの端っこを歯で挟み、削り取るように歯を動かした。すぐさま舌にやってきたのはミルクチョコレート特有のまろやかな甘味だった。

「なんだ。本当に普通のチョコレートじゃないか。はは……しかしこれで一億円は――」

 刹那。視界が霞んだ。それから頭のてっぺんから足の指の先まで、身体のいっさいがっさいが丸ごとジェル状の冷や水に放り込まれたかのような錯覚にとらわれた。その時に見えた景色は本棚に囲まれた書斎ではなく、巨大な城が見下ろす西洋風の街と人の往来だった。往来の中には明らかに人間とは違う生物も多くいた。頬を撫でる瑞々しい風も、耳にやってくる聞きなれない言語を交わす人々の声も、鼻へと漂ってくるフレッシュな果物を炭火で焼いたような匂いも。なにもかもが本物だった。

「ルー! シェッ、バーター!」

 その時、女性の勇ましい声が轟いた。城の方角から甲冑を揺らす音が雪崩のようにやってくる。往来をかきわけて現れたのは、鮮やかな青に染められた盾に国章らしき紋章を金色に光らせる大勢の兵士達。私はあっという間に兵士たちに囲まれてしまい、呆然と突っ立っているしかなかった。

「ナバテ!」

 再び女性の勇ましい声。城側にいる兵士達が左右へと避けていき、道が拓ける。そこには二人の女性が立っていた。彼女らは私に駆け寄ってきて手を掴んできた。

「貴方は異邦の国、ジャポーからやってきた御方ですね?」

「……!」

 日本語? ジャポーとは日本のことを言っているのか? あまりに唐突な出来事の連続で思うように言葉を紡ぐことができなかった。

 日本語を話す女性は玉のように美しい白い肌をしていた。身にまとっている服も優雅さと品を兼ね備えたようなデザインをしていて、まさに城暮らしのお嬢様といった印象だった。

「アイカ。プリガエ、ナルジン?」

 勇ましい声の張本人であろう女性が、お嬢様らしき女性に何かを問いかけた。彼女はその問いに真剣な顔でゆっくりと頷き、私の方を見て言った。

「この方ならば、異邦に散った神々の品を買い戻し、世界を――」

 認識できるのはそれまでだった。

「な……んだ今のは?」

 ふと気づけば書斎のリクライニングチェアに腰を預けていた。嗅ぎなれた古紙の香りが鼻をくすぐる。

「うん。……うん」

 私は熟考した。たまに唸りつつ、渋りつつ、にやけつつ。

「おもしれえ!」

 在りし日の好奇心と勇気が老体の内側からどんどん湧き出すのを感じた。まるで古ぼけたエンジンが、久しぶりに本気の唸りを上げるかのように。

 私は時渡りのチョコレートを迷わず一ブロックかじり取った。