幸せの定義
ねこねる
「で、あんたいつ結婚するん? あたし生きてる間に孫の顔見れるんやろか……」
母は顎に手を添えて大げさに眉毛を下げて言う。これだから正月は苦手だった。上京して5年、毎年正月にだけ新幹線に2時間半も揺られて実家に顔を見せに行くようにしているのだが、両親、兄、親族一同、二言目にはこれだ。毎年毎年俺の精神を削っていく自分の家族や親戚を見ていると、余計に結婚することが幸せだとは思えなかった。決して結婚も考えていないわけじゃない。だから同棲している大切な彼女もいる。大切だからこそ、結婚というものは慎重にじっくり育んでいった絆の先においておく目標だと思うのだ。ふたりで幸せになるために。幸せだと思ってもらえるように。子どもなんてもってのほか。俺も彼女も成人した大人だ。最悪のことがあったとしても自分のことは自分で守れる。だが子どもは違う。結婚以上に責任を持たなければいけないのだ。生まれてきてよかったと思ってもらえるように。
慎重にならなければいけないことだと説明するのはこれで5回目。面倒くさい。面倒くさいが、これも1年に1回のことだと自分に言い聞かせてぐっとこらえていた。
しかし、新年2日目。1月2日の、少し雪の降る昼下がり。俺の人生の転機がやってきた。
俺は親戚が多い。しかも近場ではあるがみんなバラバラに住んでいるため、新年は3日かけてあちこちへ車で挨拶をしに行くのが恒例となっていた。2日目に立ち寄ったのは母の弟、つまり叔父の家だ。俺は叔父が嫌いだった。叔父のマリハラはいつもいちばんしつこいのだ。今年も我慢して我慢して必死に汚い言葉を聞き流していたときだ。まともに聞いていたら心がどうにかなってしまいそうだから、なるべく聞かないように、聞かないように、そうしていたのに、俺はその言葉を捉えてしまった。
「こんだけ子どもできひんの、やっぱあの女が悪いんちゃうの? のぉ、おまえの彼女。ぶっさいくななあ。あんなんよぉ抱けへんやろ」
ぷつんと、頭の中の何かが弾ける音が聞こえた。人によってはこんなことでと思うかもしれないが、俺にとってはいちばん大切なものを踏みにじられてしまったのだ。気がつけば俺は叔父に掴みかかっていた。しかし体格のいい叔父に敵うはずもなく簡単に投げ飛ばされてしまう。畳の上に転がった俺を見て、叔父はまた下品に笑う。あいつの舌を引き抜いてしまいたくなった。しかし、激しい怒りで頭がグラグラして起き上がることができなかった。駆け寄ってきた兄に体を支えてもらい、部屋を出て車に乗り込んだ。しばらくして両親もやってきて、今日は帰ることにしようと車を走らせた。
「大丈夫やった? ほんまあの子、口悪いわぁ」
母の言葉に、父も兄もそうだそうだと首を振る。まだ味方がいると、安堵したのもつかの間。兄が言う。
「気持ちはわかるけど、ああいうのはあんま気にしやんほうがええで」
「わかっとるよ。でも彼女のこと言われたら……」
「まあそこは事実やからなあ」
「は?」
「ぶさいくなのは事実やろ。俺は無理やわ。でもそれはおまえのせいちゃうやんか。やから、そんなーー」
「おろせぇ!!」
俺の怒りの薪は兄の点火棒によってたやすく燃え上がっていた。こいつらはそういう人間だ。いつもそう割り切ってきたのに、今日はもうダメだった。こいつらの顔も声も、みんなみんな気持ち悪い。びっくりした父はすぐに車を止めたので、俺は飛び出すように車を降りた。
「もう二度と帰らん。バイバイや」
それだけ絞り出すように告げると俺は走った。うしろでなにやら声がしたが、追いつかれないようにジグザクに走って、走って。しばらくしてふっと冷静になり立ち止まった。ずいぶんと走っていたようで気づけば最寄りの隣駅の近くまで来ていた。冷静にはなったが全く後悔のような気持ちはない。むしろスッキリしていた。もう苦しい正月を過ごさなくてもいいのだ。マリハラに心を痛めることも、汚い笑い声を聞くことも、もうない。善人のふりをして人を見下すような連中と顔を合わせなくていい。いつまでも旧時代に囚われた人間と同じ時を過ごさなくていい。最初からこうしていればよかった。澄み切った心で思ったのは彼女のことだった。俺が安心できる場所。帰るべき場所はそこなのだ。荷物は実家に置いてきてしまったが、幸い財布とスマホは持っている。このまま東京へ帰ろう。
* * *
予定より早い帰宅となってしまった。当然新幹線の指定席などとれるはずもなく、ぎゅうぎゅうの自由席で2時間半耐え、なんとかかんとか東京駅に着いた。ヘトヘトで少し休みたくなったが一刻も早く彼女の顔が見たかったのでまっすぐ我が家への道を急いだ。
鍵を回して扉を開ける。玄関に並んだ見知らぬ男性ものの靴に、ぞくりと何かが背中を這いまわるような感じがした。大量の心臓に囲まれているのかと錯覚するほどに大きく大きく鼓動が脈打つ。自分の家なのに足音を立てないようにそっと歩いた。寝室から物音がする。不思議となんの感情も湧かない。体の中から抜け出した自分が外から見ているような、ひどく冷静な心地がする。そっと寝室の扉を開けた。
「きゃあ!」
虫のような声がする。俺と彼女、いつもふたりで使っているベッドの上を見れば、まるでどこかの絵画のような男女の姿。
「ちょ、ちょっと……! なんでいるのよ? 帰ってくるのは明後日のはずじゃん」
頭の中をぐるぐるぐちゃぐちゃと駆け回る言葉たちは、なにひとつとしてまとまることはなかった。
* * *
あのあと自分がどうしたのか、彼女たちがどうなったのか覚えていない。気づけば空き巣に入られた後のような部屋をぼーっと見ていた。スマホを見れば彼女からLINEが来ている。ーー本当にごめんなさい。今実家にいます。あなたが落ち着いたら話をしましょう。
荷物はきみの実家に送っておく。もう来ないでくれ。それだけ返信すると、俺はスマホの電源を切った。
2021年が始まってまだ1週間と経っていないのに、俺は家族と恋人を失った。いや、初めからそんなものはなかったのかもしれない。くるべき時が今だっただけの話なのかもしれない。あれだけ沸いていた怒りも何処へやら。悲しくもない、怒りもない。ただ無気力だった。幸いうちの会社の仕事初めは来週だ。今はこの休みをゆっくり過ごそう。そう思ってテレビをつけても正月特番ばかりで興味がわかなかった。本を開いても文字が頭の中に入ってこない。横になろうと思ってもベッドは汚らわしくてしようがない。そう思うと、少しだけ涙が滲んだ。いつもより暗く感じる我が家に、だんだんと後悔のような気持ちが湧いてくる。俺はやらかしてしまったんじゃないか。悪いのは俺だったんじゃないか。そんなはずはない。そんなはずはーー
苦しさを紛らわせようと俺は外に出た。空はどんよりと重く、暗い。あてもなくブラブラと散歩する。俺の事情など知ったことではないと回っていく外の世界の中は、少しだけ心を穏やかにさせてくれた。そうだ。やらかしたのは俺ではない。親戚どもと彼女だ。でもあいつらは、俺と同じように心を痛めているだろうか。俺という人間を失って、ちゃんと傷ついているだろうか。辛い気持ちになっているのは俺だけではないのか。
むしゃくしゃした気持ちをごまかそうと落ちていた空き缶を蹴飛ばした。カランカランと音を立てて飛んでいく空き缶を見つめる。無造作に捨てられ、蹴飛ばされた空き缶。普段は気にも留めず通り過ぎていく空き缶を、なんとなくこのまま放っておくわけにはいかないと思った。あるべき場所へやらなければ。そう思い空き缶を拾い上げようと手を伸ばした。ひしゃげて転がっている空き缶のすぐ横に1枚の紙切れが落ちている。深く考えることもなく紙切れのほうを拾うと、どうやら年末のジャンボ宝くじだった。それはただの興味本位。たった1枚の宝くじに何かを期待したわけではなかった。ただなんとなく、気になって。スマホで当選番号を調べてみた。
……当たっている。1等の7億円が。何度確かめてみても当たっている。持ち主は換金しに行く途中で落としてしまったのだろうか? この当たりくじを手にした持ち主はどんな気持ちだっただろうか。人生をひっくり返すような幸せな心地だっただろうか。それとも、はした金と捨ててしまえるような程度のことで、初めから幸せだったのだろうか。いや、そもそもお金があるというだけで本当に幸せなのだろうか? 好きなものが買えて、好きなことができることが幸せなのだろうか。幸せとはなんだ。俺の幸せは、夢は、なんだ。
大好きな本を買いあさって、飽きるくらいに読んでみたいと思う。お金があれば働かなくてもいい、読む時間だっていくらでも作れるだろう。大好きなものに浸っていられることは幸せだと思う。何か新しい趣味を始めるのもいい。ガーデニングやロードバイク。温泉を巡ってみたり、流行りのソロキャンプなんかもやってみたい。温泉には本当にサルがいるのかこの目で確かめることもできる。やりたいことをやりたいと思ったときにやれることは幸せだと思う。自宅にゲーム部屋を作ってみるのも昔からの憧れだった。最高にフィットするソファに、大画面のモニタ。最新のマシンは全て揃っていて、壁一面の棚にはゲームソフトがずらりと並んでいるのだ。ロマンとも言える環境を作ることができるのは幸せだと思う。
肝心なことを忘れていた。それらの夢を満喫するにはマイホームが必要だ。隣人の物音にイライラさせられ、こちらも息を潜めていないといけないような壁の薄いアパートなんかでは自由でいられない。思いっきり羽を伸ばせる自分だけの領域。ガーデニングも満足にできるように、趣味の道具をしっかり管理できるように、広い部屋と、広い庭が必要だ。それだけ広ければ少し寂しくもなるから、犬と猫と一緒に暮らそう。犬と毎日体を動かして遊んで、眠るときには猫が寄り添ってきてくれて。ふたりは俺を傷つけることはない。だから、俺も安心して愛情を注ぐことができる。なんて幸せなのだろうか。
「大丈夫ですか?」
若い男の声でハッと我に返った。宝くじを拾った体勢のまま妄想にふけっていたようだ。男には大丈夫だと告げ、俺は歩き出した。真っ青な空が眩しく感じられてつい微笑んでしまう。俺はなんて狭い世界を見ていたのだろう。失ったものは大きかったかもしれないが、俺なんかの頭で思いつくだけでもまだまだ無限に、手に入れていないもののほうがたくさんあったのだ。失くしたものを取り戻せなくてもいい。こうして目を開いている限り、まだ掴んでいない未来は果てもなく俺の前に広がり続けている。何度だって幸せを叶えに進もう。やらかしただなんて下を見るのは、天に昇る時でいい。落とし主もどうかこれからも幸せでありますように。
俺は宝くじを持つ手にぐっと力を込めると、ひとつの小さな幸せのかけらを届けるために交番へ向かった。