妄念がやまない

上坂 涼

 

 妄念がやまない。彼女の眼差しも、唇も、吐息も、肌に伝わる体温も。全て俺のもの。

 ――私の全てを貴方に捧げます。どんな命令でもしてください。

 それが彼女の告白だった。自分のなにもかもを支配されていたいという感情がどうしても理解できない。だが、それと同じくらい魅力的だった。人道に反していると思うし、愛の形がそうであって欲しくないと信じている。

 今日は十二月三十一日。大晦日。どうにかしてこの妄念を払おうと除夜の鐘を聞きに来た。

 辺りは参拝客で溢れ、口々にああだこうだと会話を繰り広げている。石像のようにじぃっと固まり、ぐっと顔をしかめている俺は周りからはどう見えているのだろうか? いや……どう見られているかどうかはどうでもいい。それよりも変質者と思われてこの場から退場させられやしないかが心配だった。

 彼女は全て俺の思い通りになる。

 それがどれだけ蠱惑的で激情を掻き立てられるのか知りもしなかった。人間を己が思うままに従わせることが出来るということが、これほどまでに興奮するなんて思わなかった。

 四つん這いにさせたり、他人とキスをさせたり、コンビニ強盗させたり、人を殺害することだっていとわない。

 俺が。俺が一つ命令するだけで、彼女は一つ返事で遂行する。

 喉の奥がカッと熱くなる。尋常ではない愉悦に全身が打ち震えているのが伝わってくる。

 大晦日という日本文化は、その年の穢れを祓う行事だ。一年――三六五日を通して心身にまとわりついた穢れを無くし、新たな始まりを迎えるための儀式だ。除夜の鐘もその一つ。鐘を一度突くたびに一〇八ある煩悩を一つ消していき、翌年を妄念一つない澄んだ心で迎えるために存在する。

 俺は翌年にこの妄念を持っていかずにいけるだろうか?

 五二回目の除夜の鐘が俺の煩悩を攻撃した。

 消えない。薄まった感じもない。頭の中は彼女に満たされたままだ。はだけた服から覗く胸元。乱れた前髪から垣間見える熱っぽい眼差し。ベッドに横たわる彼女は人差し指をすぅっと太ももの上で走らせて……スカートの裾を巻き込んで……。

 ダメだ! ダメだダメだダメだダメだ!!

 確かに俺は彼女が好きだ。もはや愛している。愛してしまった。けれどこの愛情は慈愛ではない。とてつもなく危険で不安定なものだ。この道の先に待っているものは歪で狂ったおかしな世界しかない。

 ……それでもいいのではという自分もいる。彼女はイカれている。俺がもう一人の女性を愛そうと、別の男と結婚しろと命令しようと満面の笑みを浮かべることだろう。俺は人道に沿った愛を形成しつつ、人道に反した愛情も両立出来る道も選べる。この狂おしいほどの情欲をいっさいがっさい消し去って、彼女を正しく愛することを残念に思うのも事実だ。一般人である俺に心酔し、どのような命令でも聞くような存在は希少だ。どこぞの最高権力者でも教祖でもない普通の社会人で、思い通りに動く手駒のいる者など全世界を探しても一握りのはずだ。蜜々(みつみつ)しい非日常をわざわざ捨てるというのも実に口惜しい。

 この煩悩を捨てるのは、思う存分に彼女を堪能してからでも遅くないのではないか。と、考えるのは今ので何回目だろうか。ゆうに百万回を超えていることだけは分かる。だがそれだけだ。堂々巡りも良いところ。この問いに答えは出る日は来るのだろうか。

 彼女の眼差しも、唇も、吐息も、肌に伝わる体温も。全て俺のもの。けれど……妄念がやまない。やまないのだ。彼女の願いが俺の所有物になることなのだとしても、そこに彼女の意思は存在しないのだから。

 五三回目の除夜の鐘が俺の煩悩を攻撃した。……消えない。薄まった感じもない。頭の中は彼女に満たされたままだ。

 俺の心身にまとわりついた穢れはすっかりこびりついて、祓うことはもう不可能なのかもしれない。

「もう。勝手に置いていくなんてひどいですよ。すごくすごく探したんですからね」

 去年もダメだった。一昨年も、一昨々年もダメだった。きっともう今年もダメなんだろう。

「勝手に置いていくなら……ちゃんと命令してくれなきゃダメなんですからね?」

 彼女はぎゅっと俺の腕にしがみつき、満面の笑みを浮かべた。