ニシンそば

ねこねる

 

 ベチ、バチンッ。

 薄暗い部屋で奇妙な音が響く。灯りは数本のロウソクのみで、音の主は炎に合わせて蠢めいている。ギラギラと輝くふたつの瞳。にたりと笑った口からは鋭い牙が覗いている。

 影が腕を動かすたび、ベチ、バチンッと音を立てて何かの塊が板に押し付けられる。そして何度も何度も大きな棒のようなもので塊はしつこいくらいに潰されていく。

「これで……おわり……」

 両の目がカッと見開かれる。ロウソクは手に握られた麺切包丁を鮮やかに照らし出す。キラッと光った瞬間、獣は塊へ向けて包丁を振りかざしーー

「何やってんの」

 パッと部屋の電気が灯された。キッチンの入り口には1匹の猫ーーオミーニャが呆れた顔で立っていた。ジャミーニャは振り上げた包丁をおろして、今しがた打ち終わった蕎麦の塊を指差す。

「そば、うってた」

「それはわかるけど、ちゃんと電気つけないと目悪くなるよ」

「それはちがう。くらいからメがわるくなるんじゃなくて、くらいからとモノにちかづいてみるからメがわるくなる。くらくても、テキセツなきょりからみればメはわるくならない」

「はいはい」

「あと、ジャミたち、ネコ」

「確かに」

 ジャミーニャは普段あまり言葉を発さないが、何かを否定するときはやたらとペラペラと喋るようになる。もとより少し舌足らずなのに早口になるものだから、オミーニャは聞き取れないことも多かったりする。それに否定することをそんなにがんばらなくてもいいのに、といつも思っていた。

「ところで、お蕎麦どう? いいかんじ?」

「いま、きるとこ」

 そう言って、持っていた麺切包丁を振り回した。それはもうブンブンと。

「うわ、あぶなっ」

 オミーニャは一歩下がった。下がったところにすぐにすっと大きなまな板が差し出される。まな板の上には綺麗に切りそろえられた蕎麦があった。あのめちゃくちゃな包丁さばきとこのわずかな時間で、どうしてこうなるのかさっぱりわからない。ジャミーニャはカフェで働いているとは思えないほど味音痴だが、包丁の扱いだけは超一流だった。本人も自覚があり、差し出されたまな板の向こうでわかりづらいドヤ顔でオミーニャを見ていた。心なしか鼻息も荒い。表情の変化に乏しいジャミーニャだがよく観察していると意外と感情表現が豊かだと、オミーニャはふふっと息を漏らした。

「ありがとう。じゃあ、お湯は……わいてるね。さっそくゆでていきましょう!」

「おー」

 ここまでくれば蕎麦はとてもシンプルだ。たっぷりのわかしたお湯に入れて、数分ゆでる。その間にかけ汁をさっさと作っていく。カフェ「ハッピーバースデイ」特性のカツオだしに醤油とみりんを加え少し煮立てる。そしてゆであがった蕎麦をザルにあげ器に盛り付けると、先ほどのかけ汁をたっぷりとかけてできあがり。

「まだできあがりじゃないよ。エビてんがたりない」

「エビ天! そうね、お蕎麦といえばエビ天よね。えーっと……」

 オミーニャは考えるそぶりをしながら冷蔵庫を開ける。キッチンの冷蔵庫はシロクマを詰めてもまだスペースがあるほど大きい。

「どうしたの? エビてんないの? ……さっきおきゃくさんにいたよね、エビの、プーロンさん」

「お客さんは食べないの」

 メッとジャミーニャを軽く叱りながら、目当てのものを見つけたオミーニャはパタンと冷蔵庫を閉じた。少しだけひんやりとした空気が顔をくすぐったような気がした。オミーニャの手にはサランラップに巻かれたお皿、中身はもちろん。

「ニシン」

「ニシンかーい」

 ズコーっとジャミーニャはすっ転んでみせる。しかしすぐに笑顔。元来猫は魚が好きなのである。オミーニャはニシンをレンジにセットする。チンと小気味良い音がしておいしい香りが漂ってくる。

「さっ、もうすぐ年が明けるわ。お蕎麦も冷めないうちに、いただきましょ」

 

* * *

 

 ジャミーニャとオミーニャはコタツでぬくぬくと丸くなっていた。ジャミーニャはニシン蕎麦のかけ汁まで綺麗に飲み干して満腹でうとうとしている。オミーニャはいろんな動物たちがエクストリームアイロンがけをする正月番組を見て笑っていた。今年もなんでもない大晦日が終わって、いつのまにかなんでもない正月がやってきていた。ふたりは心も体もポカポカとしていた。

「でも、やっぱりエビもたべたい」

「もーわかるでしょ? 最近プーロンさんがよく来てくれるようになったから……なんとなくエビを食べる気になれなかったのよ」

「プーロンさんのせいか……」

「せいとか言わない」

「プーロンさんってさ……まるまるしてておいしそうだよね」

「それはまあわかるけど、お客さんだから。やめなさい」

 オミーニャはプーロンさんの姿を思い出していたのか、少しヨダレを垂らしながらジャミーニャを諌めた。ジャミーニャは最初からダラダラである。

「あ、そうだ。ジャミーニャ。明けましておめでとう! 今年もふたりでがんばっていこう」

「うん、あけおめことよろ。オミーニャ」

 ふふっと笑いあって、ふたりはまたあったかい気持ちになった。テレビの向こうでは、涼しい顔で完璧にアイロンがけをこなすラマのリャムルカ選手が最高の盛り上がりを見せていた。

 

* * *

 

「明けましておめでとう! おふたりさん」

「あ、アザミンゴさん。いらっしゃいませ。今年もよろしくお願いします」

 正月休みもあっという間に過ぎ去り、「ハッピーバースデイ」も営業を再開していた。開店と同時にアザラシのアザミンゴがやってきた。

「正月から待ってたんだよ。僕はもうここの食事しか受け付けない」

「うそだろ」

 ジャミーニャがうげ、と嫌そうな顔をする。嫌そうな顔ではあるが、これはジャミーニャの優しさなのだとオミーニャは思った。この寒い中何日も店の前で開店を待っていたなんて……アザラシといえど体を壊してしまうかもしれない。弟子のジャミーニャがドン引きして見せれば、アザミンゴはショックでもう同じことは繰り返さないだろう。たぶん。

「うーんおいしい。お雑煮おいしいよ。このだしはいつものカツオだしじゃないね。なんだろう……エビかな?」

「正解です」

「はっはー。伊達に毎日ここで食べているわけじゃないぞ」

 アザミンゴは得意そうに笑う。しかし、すぐに顎に手を当てて何かを思案し始めた。

「エビといえば……最近ここによく来ていたエビがいたろ。えーっと、なんて言ったか。プーアル?」

「プーロンさん?」

「ああ、そうそう。外で待っているときチラと耳にしたんだが、どうやら昨日から行方不明らしい」

「え、そうなんですか」

 オミーニャは瞼を落として悲しげに顔を伏せた。感受性豊かなオミーニャは他人のことでもひどく心をいためてしまう節がある。

「早く見つかるといいですね……」

「プーロン、ずっとうみのむこうにあこがれていた」

「そうなんだ。噂をしていたフクロウたちも言っていたよ。プーアルは意識が高かったからね。きっと夢を叶えにいったんだろう。案外近くにいるかもしれんしなあ」

 そう言って、アザミンゴはお雑煮を一息に飲み干した。