チョコレートは罪の味

上坂 涼

 

 

 いよいよこの日がやってきたと、美咲は意気込んだ。

 さっそく鞄から取り出した手作りチョコレートを携えてインターホンをぐぐっと押し込む。

 電子音が同じパターンを二回繰り返す。しばらくするとガサッという雑音がインターホンからやってきた。

「はい」

「あ、あの! 野上です。義人くんいらっしゃいますか」

「あー! 美咲ちゃん! ちょっと待っててね」

 再びガサッという音がしたのを最後に、インターホンは沈黙した。

 ひんやりした空気を肺一杯に吸い込んで火照った身体を冷まそうとしてみるが、全く効果が見られない。心臓はまるで爆発寸前の爆弾で、人生最大の速度で鼓動している。見上げれば綿菓子で埋め尽くされたかのような空。そこからは雪がはらはらと舞い降りている。美咲のさしているピンク色の傘にも続々と雪が降り立ち、その色を白に染めていく。羽のように舞いながら落ちてくる雪のかけらが自分の鼻先にちょこんと座ったのを、美咲はじぃっと見つめていた。

「野上! 待たせてごめんな。どうした?」

 ふいに玄関扉が開き、ジーンズにジャケット姿の好青年が顔を出す。川原義人。美咲のクラスメイトだ。

「あ、あのね。その……受け取ってほしいものがあって」

「もしかしてチョコ?」

 こくりと頷く美咲を見て、義人はにっこりと笑う。

「今日バレンタインだもんな。……嬉しいよ。ありがとう。良ければ上がってってよ」

「う、うん」

 美咲と義人は俗に言う友達以上恋人未満の関係だった。最初は美咲からの度重なるアプローチをうっとおしがっていた義人だったが、次第に彼女の行動に惹かれ、徐々に美咲を好きになっていった。

 義人はバレンタインデーである今日という日に美咲がチョコレートを持って自宅にやってくることは、美咲の友人伝手に知らされていた。なのでいつも以上にオシャレをして美咲が家に来るのを密かに待っていた。もちろん待ち望んでいたことがバレてしまうと恰好悪いので、あえて知らない風を装った。美咲を家へと招き入れることも最初から計画していたことで、今日という機会にあわよくば告白をしてしまおうと彼は目論んでいる。

「足元に段差あるから気を付けてね」

「うん、ありがとう」

 義人は美咲を二階の自室へと招き入れた。普段は私服と雑誌とコンビニ袋などでとっ散らかっている部屋だが、今日に限っては塵一つ無い清楚な部屋に変身していた。室内は薔薇をベースにした華やかでいてしっとりとした優しい香りで満たし、自身のアピールポイントである知性と少年ぽさのギャップを本棚の背表紙と勉強机に置いたインテリアでさりげなく主張させている。告白を成功させるためにマイナスポイントを徹底的に排除しつつ、プラスポイントを稼いでいくという義人の企みであったが、美咲はそれを既に見抜いていた。

「ねえ義人くん。突然なんだけどクイズ出しても良いかな?」

「なんだよ。ほんと突然だな」

 ははっと笑う義人と、頬を淡く染める美咲は実に対照的だった。

「罪の重さって変わって良いと思う?」

「え?」

 美咲は上目遣いに義人を見つめている。頬は変わらず淡く染まっている。

「うーん。変わるんじゃないかな。事情だって色々あるだろうし。情状酌量っていうんだっけ」

「不正解。重さは変わっちゃ駄目なんだよ」

 美咲は膝を正してチョコレートのラッピングをはがす。ハート型の蓋を外し、ハート型のミルクチョコレートを覗かせた状態で義人に差し出した。

「あ、あの……これ、どうかもらってください」

「ああ、うん」

 違和感。場にそぐわないただ一つのクイズが影を落とす。

「手作りなんだよ。食べて?」

 義人は震える手をミルクチョコレートに伸ばした。手のひら大のそれは想像以上に重かった。

 そんなはずはない。なにも悪いことは起きない。

「美味しそうだね」

 義人は笑みを浮かべたまま、ミルクチョコレートのはしをかじった。

「……うん。うん。美味しい。めちゃくちゃ美味しいねこれ」

 ミルクチョコレートは実に良い味をしていた。手作りにありがちな旨味が消え去ることも、舌触りが悪くなることもなく、噛めば噛むほど上品な甘みが広がり、滑らかな舌触りが幸福な味が少しでも長続きするように後押ししている。

「ぐっ……みさ、きちゃん」

 それが毒だということはすぐに分かった。焼けつくような激痛の波。舌の上で踊っていたはずの甘みは、あっという間に激痛に洗い流されて消えてしまう。

「ううっ、おえぇ」

 脳が異物を追い出そうと胃に収まったものを全てぶちまかせた。しかし義人の体調はみるみる悪化していく。

「がぁ……が」

 義人はよだれをとめどなく床にこぼしながら、なんとか立ち上がった。だが次の瞬間には膝が折れてばたりと倒れこんでしまう。ちょうど美咲の左脇に倒れた義人の後頭部を美咲はじぃっと見つめる。死んだのか、昏睡しただけなのかそれっきりピクリとも動くことはなかった。

 その時、急いで階段を上がってくる音が美咲の耳に届いた。

「どうしたのー? 大丈夫? 何かすごい音が鳴った――」

 母親の声は最初楽しげだったが、倒れている義人の姿を認めるいなや風船がしぼんでいくように弱弱しくなった。

「義人!?」

 ほとんど金切り声になりながら愛息子に飛びつく。

「義人! 義人! ねえったら!」

 何度も身体を揺するが、プリンのように柔らかく動くだけで目を覚ますことはない。全身が脱力しているのは明らかだった。

「なんだどうした!」

 今度は父親がやってくる。状況を察した父親はすぐさま義人の脇に座って脈を測る。……脈はあった。だが安定していない。まるで義人の身体を乗っ取った生き物が胎動しているかのようだった。

 美咲にとって今年のバレンタインデーは光明だった。女性からの贈り物が不自然にならず、喜びに満ちた一日であり、日曜日のため両親が家にいる。まさに実行するにはうってつけの日。

「私が毒を盛ったんです。このハート型のチョコレートに」

「お、おまえ……! なんでそんなこと!」

 父親は驚愕し、母親は呆気に取られて固まってしまう。

 息子に出来た恋人候補がバレンタインデーに家にやってきた喜びはいかほどのものだったろうか。その恋人候補に息子を殺害されてしまう絶望はいかほどのものだったろうか。美咲はその落差をこの両親にずっと味わわせてやりたかった。幸せからの転落。だらしなく笑っているところに浴びせる鋭い一撃。願い続けていた七年越しの未来が、今ようやく叶った。

 ざまあみろ。

 美咲は心の内で実に暴力的に、この両親を嘲った。奪った者は奪われる宿命にある。他人が他人を裁くから歪みを生む。それは奪われた者にしか分からない真実。

「住まいを変えても無駄。名前を変えても無駄。人の記憶は消えないのだから。あらゆる情報網を利用して突き止めた」

「あんた誰よ! 誰なのよ!?」

 母親がわめきちらす。肉になりつつある息子の胸に手を置きながら。

「貴方の夫が飲酒運転で百七〇キロ出して、事故を起こして殺害した三人家族。その知人」

「知人!? 知人ごときがどうして!」

「私の従兄弟の友人が、殺された家族の一人息子だった。従兄弟がよく連れてきて一緒に遊んだ。二つ年上の彼に私は恋をしていた。十歳の恋でも恋は恋。私は本気だった。なのにバレンタインのチョコレートを作ったあの日、彼は頭が破裂した人形のような姿になってしまった。……従兄弟もショックを受けてしまって引きこもりになり、それが影響して従兄弟の家庭は崩壊。もうめちゃくちゃなんですよ」

 母親も父親も美咲の話を聞いて、今まで真っ赤だった顔を真っ青に染めていた。

「きゅ、救急車……あと警察も……あと、あとそれから」

「優秀な弁論で貴方を五年の懲役にした弁護士はもう手遅れですよ。昨日殺しましたから」

 父親の顔が真っ青を通り越して、紙のように白くなっていく。

「この世の中は強者が得をします。ベンチャー企業の社長である貴方も強者で良かったと思いましたよね? 私もそうなんですよ。十七歳で良かった。死刑が無くて良かった。特別扱いされるの最高。って思ったんですよ」

「くそ……くそぉ!」

「私の本心を語るのは今が最後です。今後いかなる時でも、私は今日行ったことを悔いて心から反省をした態度を貫き通します。だって終身刑になってしまったら貴方たちの苦しむ姿を見ることが出来なくなるでしょう?」

 美咲はゆっくりと人差し指を持ち上げて、欠けたハート型のチョコレートを指した。

「これは貴方たちが免れた罪の塊です。正当な罰を受けていれば生まれなかった塊です」

 それからその指を義人へと動かし、じぃっと見つめた。

「ここで一つクイズ」

 美咲は表情一つ変えずにじっとりと首を傾げた。その仕草に一切の情は感じられない。人ならざるもの。

「罪の重さって変わって良いと思う?」