サバ王の帰還

上坂 涼

 

 

 明けの明星の輝く空から一筋の赤い光がやってきた。

 その速度たるやレーザービームと見紛うほどで、あっという間に海岸近くの海へと突き刺さり、それは大きな水柱を生みだした。

 会社へ出勤するまでの朝時間を使って、海を散歩するのが日課だった田中と飼い犬のジョゼは、まさにその一部始終を目の当たりにしてポカンとその場に立ちつくしてしまう。

「な、なんだ? 隕石でも落ちたか?」

 好奇心旺盛で血気盛んなはずのジョゼが身体をブルブル震わせて、くぅんくぅん鳴いている。いつもなら我先にと駆け出し、物事の中心に飛び込んでいくはずのジョゼがこうも怯えているというのは何かとてつもなく良からぬことが起こる前触れのように思えた。

(おい)

 ん、なんだ……?

(おい。お前だ。畜生を連れた人間)

 誰かが直接脳に語りかけてくる? なんだこれは? どうなって――

 田中が頭を抱えたその瞬間。海から浜辺へと直進してくる水しぶきが目に入った。水しぶきは浜辺の際でピタリと止まったかと思いきや、真っ赤な身体をした一匹の魚がぬぅっと水面から姿を現した。

(こっちへ来るんだ。人間)

「う……嘘だろ?」

 田中は怯え続けるジョゼをその場に置いて、一歩また一歩と真っ赤な魚へと歩みを進めた。

 人生初めての未知との遭遇に田中は興奮し、恐怖し、歓喜した。未だに心の奥底では逃げたい気持ちと未知なる世界に触れてみたい気持ちとがせめぎ合い、頭がぐわんぐわんと揺れていた。それでも足は海へと進んでいく。これまでの退屈な人生が、苦痛と悲しみに溢れた時間が、田中を海へと運ぶ。

(よく来た人間)

 そこには一匹のサバがいた。色が真っ赤になっただけのサバ。感情のないまんまるな瞳で田中を見上げているのはサバ。宇宙人でもなんでもない。一筋の赤い光になって宇宙からやってきてはいるから、正確には宇宙サバ。テレパシーを使い、日本語で語りかけてくるサバというのは確かに未知との遭遇と言えるだろう。しかしなんでサバ。田中は別の意味で頭がぐわんぐわんしてきていた。

(さっそくだがお前らのリーダーに会わせろ。これから世界を支配していくにあたって円滑な協力関係を築きたい)

「はい……?」

 この場合のリーダーって誰になるんだ? 会社の上司? いや、支配していくとか言ってるし総理大臣? 国連? 田中は頭を抱えた。

(ふふふ。怯えずとも良い。我々は友好的な魚種だ。我々の手と足となり動いてくれれば、それなりの褒賞はくれてやる)

「褒賞、ですか」

(そうだ。世界中に散らばる我が民とその配下がお前らに海の宝を運ばせる。食い物から失われた文明の遺物まで何でもだ)

「へえー。なんか良さそうですね」

 このサバ、考えているより良いやつなのでは? と思い始めた田中は協力してやることにした。協力と言っても政府との橋渡しだけ。つまり警察に連絡するだけということ。後は偉い人達に任せてしまえばいい。簡単な仕事だ。

「うん。分かりました。では私が日本の偉い人に繋がれるように連絡してみます」

(良い選択だ。ではこれを授けてやろう)

「え?」

 と声を出すのも束の間、真っ赤なサバの目から青い光線が放たれ、田中の額に直撃した。身体中を生暖かい膜のようなもので包まれる感覚がやってきたと思えば、額がひんやりと冷たくなっていく。

(これでいい。さあ連絡しろ)

「え、え。いったい何をしたんですか?」

 田中は猛烈に焦った。そして相手が地球外生命体だというのに油断してしまったことを後悔した。今行われたことは明らかに人の御業ではない。宇宙人の卵を植え付けられた可能性だってある。徐々に鼓動が早くなっていく田中をよそに、真っ赤なサバはカラカラと笑うように頭を上下に振った。

(額を見てみろ)

 言われるがまま、田中はスマートフォンのカメラ機能で自身の額を映した。

「なんだこれ!?」

 そこには焼きごてで焼印を付けられたようなイラストが映っていた。スーパーのチラシに乗っているような横向きになったサバっぽいイラスト。無駄に可愛い。

(これはお前が我らサバと人間の橋渡し役の証であり、我らの召使いの証だ。英語でサーバント。サバだけに。あっはっはっは)

 そう言って頭を上下に振りつつ腹びれでバシャバシャと水しぶきを飛ばす。表情の無い目で笑われてもなんか怖いだけだと田中は渋い顔を作った。

「……バカバカしい。協力してやろうと思いましたけど、そんな気も失せました。他の人を捕まえてください」

 地球外生命体だろうとサバはサバだ。海からは出られまい。陸にいる以上、こいつらの脅威に晒されることはないはずだ。あとやっぱり未知の生物すぎて怖いし。関わらないに越したことはない。

(ふん。そのサバ紋を消し去れるのは私だけだぞ。皮膚をはがさない限り、消えることはない)

 と、田中が海に背中を向けたところで、真っ赤なサバがとんでもないことを言ってのける。そんな馬鹿なと試しに擦ってみるも一ミリたりとも消えることはなかった。田中は額をほのかに赤くして真っ赤なサバを振り返る。

(そのサバ紋は地球外にしか存在しないアウロルジェンジーというミクロサイズの微生物を植え付けて描いている。奴らは生物のため、皮膚の表面を保護しつつ、皮膚が剝がれないようにピッタリと宿主が死ぬまでくっ付く習性を持っている。そしてくっ付けた本人の言うことしか聞かない)

 田中は真っ赤なサバの説明を聞いてがっくりと肩を落として顔を覆った。

 最悪だ。こんな可愛いサバのイラストを額に載せて生活をすることなんか出来ない。隠すにしてもオフィスワーカーの田中には仕事中に額を覆うようなファッションは禁じられている。仕事中は可愛いサバのイラストを晒しながら、上司に頭を下げて、後輩にカッコいい姿を見せて、社内恋愛中のナギサちゃんのご機嫌を取らなければいけない。

 ……そんなの無理だ。上司にはキレられ、後輩には笑われ、ナギサちゃんには愛想を尽かされるに決まっている。額に可愛いサバのイラストを載せた男なんて生き恥も良いところだ。いっそのこと魚屋に転職でもするか?

(……あんっ! ……――)

「え?」

 何事かと田中が顔を持ち上げると、目の前にはダイバースーツ姿のモリを持った男が立っていた。

「いやー。今日ぜんっぜん魚獲れなかったからどうしよ思ってたんやけど、ラッキーだったわー」

 モリには九の字になった真っ赤なサバが突き刺さっていて、誰がどう見ても絶命しているのは明らかだった。ダイバースーツの男は「あっはっは」と高らかに笑いながら、悠然とモリを掲げてその場から去っていた。

 唐突な未知との遭遇の終了に呆気に取られるも、すぐに我に返って田中は叫んだ。

「この額のやつどうすんだよ!?」

 と、元気な犬の鳴き声が飛んできた。愛犬のジョゼが足元にまとわりつきつつ田中の正面に回り込み、彼を見上げた。するとなお一層嬉しそうに吠えて、両前脚を浮かせた。

「なんだよ。可愛いとでも言いたいのか?」

 田中は朝焼けの海に視線を投げて、その穏やかな潮騒に耳を済ませた。

「魚屋……やってみるか」

 田中総一郎。その額にサバ印ありと謳われ、魚業に幾度とない革命を起こすことになる男が生まれた瞬間であった。