からあげ専門店『ナゾチキ』

上坂 涼

 

 近頃、保護者会でよく話題に上る店がある。その名も『ナゾチキ』。

 からあげ専門店だというその店は、なんとも珍しいからあげばかりを取り揃えているらしく、一端の中年男性である室井も一度行ってみたいと常々頭の片隅で思いを馳せていた。しかし室井は専業主夫。妻に家計を支えてもらっている代わりに、自分は家事を一生懸命にこなさなければならない。家事に休日はなく、二人の娘が小学と中学に入学して間もない春先の現在。一週間全ての曜日がやることづくめで隣町にあるという『ナゾチキ』に足を運ぶ余裕などない日々を送っていた。

「そんなに行ってみたいなら行ってきなさいよ。そろそろ有休取って家族サービスしようと思ってたし。それじゃ今週の土曜日にさっそく茜と葉月の入学祝いに渋谷でパーッと遊ばないか誘ってみるからさ。たまには男一人のんびりと旅でもしてきなさいよ」

「初絵……ありがとう」

 からあげ一つで何をと笑われるかとビクビクしていたが、相談してみるものだった。室井はその日の家事をせっせと終わらせて、子供とおやすみの挨拶を済ませると寝室のベッドへ早々に潜り込んだ。スマートフォンで『ナゾチキ』について検索をかけてみる。

「えーっとなになに。魅惑的な幻想空間? からあげの常識を覆す衝撃メニューが目白押し? なんかすごそうだな」

 日本国内料理店検索サイト『日本のキッチン』に掲載された『ナゾチキ』の店舗情報と口コミを読んで、室井は少しばかり辟易とした。俺のような地味な中年男性が行って良いようなところなのだろうか? と。

 内容から察するに、この店は若年層と外国人層に熱烈な人気がありそうだった。店舗の内装もエスニック一色で、写真の片隅で竜をモチーフにした香炉からピンク色の煙が吹き出しているのを見ると、なんだか入りずらいなあと室井は思ってしまう。

「けどからあげ食べてえよなあ……」

 専業主夫になってからというもの、遠出をしなくなった。活動範囲も学区内にとどまり、毎日毎日常連になった場所にしか行っていない。同じコンビニ、スーパーで代わり映えのしない商品をローテーションするだけの日々。明日はそんな現状から脱出することが出来る貴重な一日だった。大好きなからあげを目一杯食べ散らかすことが出来る。

「からあげからあげからあげ」

 室井が覚えていたささいな辟易は風に吹かれるようにあっという間にどこかへ飛んで行った。

 

 『ナゾチキ』は入り組んだ路地の最奥にあった。閑静な住宅街でひっそりと佇む個人商店のような景観。

 にもかかわらず、店の前には長蛇の列が作られ、客達の会話が飛び交ってガヤガヤと騒がしかった。近隣の住民だと思われる年配の主婦が怪訝そうな視線を列に向けつつ駅の方へと歩いていく。『ナゾチキ』がオープンして二週間ちょっと。まだ地域に馴染んでいない様子が見て取れた。

 二時間ほど待って、ようやく自分の番がやってきた。満を持して入口の引き戸をゆっくりと開ける。

「うっ……」

 まずやってきたのは店員でもなく店内の景色でもなく、強烈な甘い匂いだった。香りなんていう軽いものではない。ねっとりとねばっこくまとわりついてくるかのような重い匂いだった。まるで熱したフライパンで延々と砂糖を混ぜたスパイスを焼き続けているかのような匂い。焦げ臭くて、生クリームのように甘ったるくて、本格カレーのように食欲を強制的に引き起こされるような複雑で魅惑的な香辛料の匂い。

 室井は頭をクラクラとさせた。比喩ではない。文字通りにくらんくらんと頭を前後に揺らした。

 ふと気付くと一人用の席に座っていて、首からナプキンを巻かれていた。両手はナイフとフォークを既にそれぞれ握っており、金の刺繍が入った真っ赤なテーブルクロスの上に料理を載せた皿がやってくるのを待つ状況が整っていた。

 「……う、ぁ」

 いったいどういうことだ? と言おうとした。しかし声を出すことが出来なかった。麻酔を打たれたかのように口から喉元にかけて感覚がない。どのように口を動かせば言葉を発することが出来るのか全く分からなかった。しかしそんなことは二の次だった。

 なによりも恐ろしいのは、今置かれている状況に自身が恐怖心を全く抱いていないことだった。頭をくらくらとさせる匂いが全身を満たして、心地よさ以外の感情が湧いてこない。

 おかしなところへ拉致監禁でもされたのかと一瞬思ったが、周囲からガヤガヤと客が会話しながら食事を楽しむ声がとめどなくやってくること、そして室井より前に並んでいたカップルの声、後ろに並んでいた女子高生二人の声もそこに混じっていることから、ここは依然として『ナゾチキ』店内なのだろうと察した。

 辺りを見渡してみる。とてもとても狭い個室だった。電話ボックスを縦に三つ並べたような間取りだった。どの面にも扉のようなものは付いておらず、それどころか窓一つ見当たらない。しかし上部だけは仕切りがなく、果ての見えない真っ暗な天上から、長い長い黒線が降りてきていて、先端についた一個の裸電球が仄暗く室井のいる室内を照らしていた。

「ナゾチキでぇす」

 ふと声がしたと思いきや、室井の正面にある壁の外から釣り竿のようなしなる棒がぬぅっと現れた。棒の先端には縄が取り付けられていて、棒から伸びる三本の縄で固定された物体がゆらんゆらんと揺れながら、室井の目の前にある赤いテーブルクロスの上に着地する。

「ナゾチキでぇす」

 それは毒々しい色をした一個のからあげだった。シューシューと蒸気を噴射するような音をあげて、毒色のからあげは呼吸をするように動いていた。

 パチンという音とともに、三本の縄を留めていた金具が開かれ、固定されていたからあげがテーブルクロスの上に転がった。

「ナゾチキでぇす」

 しなる棒がバラバラになった三本の縄を揺らしながら、地面へと埋まっていくかのように短くなっていって、いよいよ見えなくなった。

 残されたのは毒色のからあげと、食器を両手に握った室井ただ一人。

 室井はなぜか毒色のからあげをとても美味しそうに感じ、スーッとフォークを伸ばしてその衣に突き立てた。スマートフォンの目覚ましバイブレーションかのごとくブブブブと毒色のからあげが絶えず振動する。苦しく呻くカラスのような声を上げ続けるそれを、室井は一口で頬張った。

 肉を包む衣を噛みしめる。旨味の凝縮された肉汁が衣が溢れだし、口内に満ちたかと思えば激痛が襲った。口の中が旨い痛い旨い痛い旨い痛い。強烈な甘い匂いにあてられながら襲いかかってくる旨味と激痛。情報の濃密さを処理しきれず脳がパンクし、頭が真っ白になるまでにはそれほど時間はかからなかった。

 室井は真っ白い海を泳ぐ。心と全身が洗われていく。鼻の奥を吹き抜けるミントの香りがとても爽やかで心地が良い。さざ波の音が耳で踊り、火照った身体を涼風が癒してくれる。もうなにもかも捨て去り、一生ここで揺蕩っていたいと室井は思った。

「あれ」

 ふと気付くと、ナゾチキの店前に設けられた休憩所のベンチに座っていた。今度は口の中に違和感を覚える。ペっと吐き出してみると、それはミント色をしたガムだった。

 

「からあげからあげからあげ」

 あれから三日が経った。室井の心は『ナゾチキ』に捕らわれ、何をするにしても気持ちが入らない。ただただ淡々と日々の業務のように家事をこなすのみ。つまらない。なにもかもが面白くない。家事も子育てもテレビも漫画も音楽も。全てはあの強烈な甘い匂いの前には無力だ。『ナゾチキ』に行きたい。『ナゾチキ』に行けば救われる。

「ふ、ふふ。ふふふ」

 室井は良いことを思いついたと言わんばかりに、静かな笑い声を上げた。

 

「ちょっと。すごい行列じゃない。これは確かに期待できそうだけど、さすがにねぇ」

「行列すごーい!」

 妻の初絵と小学生になったばかりの娘、茜の二人が二時間待ち規模の行列に対して感想を述べた。中学生になったばかりの娘、葉月は短くため息を吐きつつ、依然としてスマートフォンをいじっている。三人ともからあげにあまり興味を持っていないようだが、一度食べてしまえばこっちのもの。やみつきになるに決まっている。そうしたらこの『ナゾチキ』のすぐ近くに引っ越すことだって二つ返事で賛成してくれるはずだ。これからは家族みんなで毎日『ナゾチキ』を食べる。それが室井の狙いだった。

 一時間半後、いよいよ室井家族の番になった。室井はウキウキしながら引き戸の取っ手に手をかけつつ、三人に振り返って言った。

「さあ覚悟しろよー? すんごいからなー?」

 勢いよく引き戸を開け放った。

「いらっしゃいませー! 四名様ですね。こちらへどうぞー」

「……あれ?」

『ナゾチキ』は極めて大衆的なアジアンレストランだった。ネットの口コミにあったように衝撃的なからあげメニューも目白押しで、家族は大喜びで料理を楽しんでいた。

 違う。違う違う違う。違う違う違う違う違う。

「からあげ。俺のからあげはこんなんじゃ」

 五つ目の料理が青いテーブルクロスの上に置かれた時、向かいに座る妻が訝し気に室井の顔を覗き込んだ。

「あなた。大丈夫? 調子でも悪いの?」

「ああ……いや、そんなんじゃないんだ。ただ――」

 ぱっと景色が二、三回明滅する。テレビのリモコンで電源をオンオフするかのように、真っ暗になったり、クリアな画面が映ったり。

「あれ」

 ふと気付くと、ナゾチキの店前に設けられた休憩所のベンチに座っていた。今度は口の中に違和感を覚える。ペっと吐き出してみると、それはミント色をしたガムだった。